実践リスク・マネジメント

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チリ落盤事故の危機管理を検証し 中国リスクにも政官民一体で臨め!

(2011年3月 7日公開)

<提言>──武井勲(武井勲リスク・マネジメント研究所=TII=所長)

ビジネス情報月刊誌「エルネオス」2010年11月号掲載
 
■世界中の注視の中、チリ落盤事故で閉じ込められていた33人は無事に救出された。チリ政府
と関係者のリスク・マネジメントは、中国リスクを抱える日本も参考にすべき点が多かった──
 

 

未曾有の救出を成功させたチリ鉱山落盤事故の教訓

 八月五日、チリ北部の鉱山で落盤事故が起き、三十三人の作業員が地下七百㍍の避難所に閉じ込められた。それ以来六十九日間、世界注視の中、ついに十月十三日に救出作戦が開始され、世界中が固唾を呑んだ。関係者、チリとボリビア(作業員一人の母国)の大統領、それに一千人以上の取材陣が見守る中、全員無事救出! 
 鉱山落盤事故発生後、安否確認ができないまま十七日が経過した八月二十二日、三十三人全員の生存確認のニュースに世界は驚嘆した。そして全員の無事救済を願った。願いは叶った。作業員の精神力、家族の愛と絆、救出に関わった関係者、チリの国全体としての救援体制、世界各国の物心両面にわたる支援、マスコミの報道、そして家族の応援・協力の勝利であった。
 この未曾有の救出成功には歓喜と感動があった。チリ政府のクライシス・コミュニケーションとリスク・コミュニケーションは、天晴(あっぱ)れ見事な手本となった。
 ところで、関係者の生命、健康、財産を守ることは、危機管理の目的である。目的は見事に達成されたといえるであろうか? リスク・マネジメントは、鉱山企業の組織価値の創造と維持に貢献したといえるだろうか? 上述の救出に関わった関係者──チリ政府、世界各国、マスコミの報道、そして家族の見地から、冷静・客観的にリスク・マネジメントと危機管理のシステムの構築・維持(PDCAサイクル)について、教訓を整理し、再発防止に役立てる好機にしなければならない。
 

悲劇を感動に変えた国を挙げての危機管理

 十分な情報はないが、いくつかの成功要因を挙げ、参考に供したい。
①現場監督の危機管理
 狭い避難所(シェルター)、わずかな食糧と飲料水、通気口も十分ではない。そんな環境下での三十三人の生存には、現場監督のルイス・ウルスアさん(五四)のリーダーシップが大きな役割を果たした。
 坑道にはブルドーザーなどの重機があった。しかし三十三人は、自力で脱出口を作ろうと考えたりせず、それを行おうともしなかった。もしそう考え、それを実行したとすれば、全員の生還はなかったと思われる。
 暑熱環境で作業員が倒れ、重機の内燃機関(エンジン)による酸素消費で酸欠になり、三十三人全滅のリスクがあった。自力脱出を試みたら、一人も生存できる可能性はなかったと考えられる。体力の消耗を抑え、救助を待つしかなかったのだ。
 シェルターといっても、備蓄用の食料・水はない。休息用に備えてあったわずかな食糧を、四十八時間にスプーンで二杯ずつ摂る生活を全員が行ったという。空腹の中、目の前に食料庫があるのにわずかな量しか食べられないという苦痛を我慢させ、それを統率したリーダーは、すごいとしかいいようがない。三十三人全員無事救助の快挙は、現場監督のリーダーシップのおかげである。
②十七日間を支えたもの
 飢え、暑熱、狭く暗い場所、そんな不安の中での十七日間は、地上と断絶の日々。創造を絶し、つらい日々だったと想像するに余りある。十七日間を辛抱できたのは、リーダーの決断力・統率力・作業員との信頼関係であったに相違ない。
③安否確認から救出までの五十二日間
 生存確認ができた時にすぐに救出方法が検討され、「四カ月」と試算された。しかし当初は、その試算を三十三人に伝えると不安感を増長させるとして、極秘扱いにした。
 もしあなたがその事実をニュースで聞いたとすれば、どのように感じ、考えたことであろうか。もし、あなたが落盤事故の被害者だったら、そして「いつ救出できるか」を示してもらえなかったとしたら、「努力しているが、救出方法がない。救出は不可能」と理解し、悲観的に考えてしまうのではないだろうか。
 実際にチリ政府は、八月二十四日にその事実を大統領が自ら説明した。このことで、先は長いが「助かる」という希望が生まれた。
④五十二日間の懸念リスク
 四カ月は長い。気になるリスクは、地盤の新たな崩落と、作業員のストレス、病人の発生、酸素濃度、硫化水素濃度などの空気環境であった。
⑤作業員のストレスのリスク・マネジメント
 生存確認時点ですでに、うつ症状の労働者も出てしまっていた。そこで個室のようなスペースを作った。そして、電話回線により、家族との通信、カウンセラーによるケアなどの必要を満たした。
 ラジオ放送などの娯楽や、携帯型のゲーム機などは効果がある。毎日家族から届く手紙は、三十三人の気持ちの支えになった。
⑥排泄物のリスク
 坑内作業のため、酸素濃度・硫化水素濃度を測定する機器はある。だが、地上との連絡手段が確保された以降は、食料が増えてくると同時に排泄物が増える。排泄物の腐敗による酸素消費、硫化水素の発生が気にかかる。
 当初十二月と予想された三十三人の生還を喜び合える日が、十月十三日に訪れた。これらの危機リスクをマネジメントした結果、驚異のスピード救出に成功したといえる。
 チリの鉱山落盤事故のリスク・マネジメントと危機管理は、国民を挙げて、政官民挙げて一致団結したリスク・マネジメントと危機管理を世界中が目の当たりにした六十九日間であった。
 

有権者が知るべき政治家の資質と基準

 チリ落盤事故騒動のさなか、民主党代表選挙が行われていた。その結果、第二次管内閣が発足した。予想されたとおり、あるいは見方によっては予想に反し、民主党は小沢一郎・前幹事長をめぐって勢力が二分され、あたかも権力闘争のさまを呈しているようにも見えた。
 政権交代に伴い、政治におけるリスク・マネジメントと危機管理に関心が高まっている。過去、内閣改造のたびに繰り返し問題になったことの一つは、大臣個人のスキャンダルであった。しかし民主党政権では、官邸の閣僚に対する身体検査はどうやら功を奏したようだ。
 わが国の政治家に今、求められているもの──いわば政治家の資質は何か? 次の資質に欠ける政治家は、それを身につけるか補強するという方法でのリスク・マネジメントが必要である。一方、有権者のリスク・マネジメントとしては、これらの要素をはっきりと政治家に期待し、投票の判断基準、行動基準とすべきである。
 政治の価値極大化には、政治家と国民双方にとって、政治における判断基準、行動基準が必要である。その基本的要素のいくつかを列挙してみたい(東京大学教授・山口昌之氏の一月五日放送のNHK「視点・論点『政治家のリーダーシップ』」を参考)。
①リーダーシップ、つまり指導力。
②自国の繁栄と豊かさを追求しながら、国際社会の平和と安定を実現する困難な課題に取り組んでいくビジョン、政治(国家経営)理念および戦略。
③平和を達成するには歴史をよく学ぶことが必要であり、世界観、歴史観が求められる。
④トマス・ホッブズが『リヴァイアサン』で書いたように、歴史に葛藤をもたらす国際政治の本質は恒久的な闘争状態である。人間が畏怖する共通の権力がない限り、人間は戦争という万人の万人に対する闘いの状態になる。
⑤だからこそ現実の政治家は、平和を実現するための厳しいリアリズムを直視しながら、暴力的で血みどろの戦争を避けるリーダーシップを発揮しなくてはならない。
⑥安全保障のような領域では、市民や世論に決定を委ねるのでなく、国全体の置かれた条件や安全保障環境に照らして、指導者が大局的に判断する責任が大事になってくる。これが外交安全保障におけるリーダーシップの基本である。短期的な選挙の利益などで判断のタイミングを見誤ると、長期的な平和と安定の機会を失うことも多い。限られた歴史の狭い類推だけに頼らず、国全体が歴史の誤解という罠(リスク)にはまると取り返しがつかない。政治家と市民の双方に忍耐力が求められる。
⑦政治家が市民に変革や大胆さだけを美徳として誇示するのは感心できない。賢いローマの政治家は、国益が危機に瀕すると見るや、武を尊ぶ精神に頼らず臆病なまでに実利的な態度をとった。こうして力を温存し、強化したローマは、ハンニバルの個人技に頼るカルタゴを打ち負かした。ローマには戦略的思考があり、カルタゴにはそれが欠けていた。敗北が予想されるなら撤退するのは恥ではない。
⑧現代政治でも、公約やマニフェストの内容が変化する現実にそぐわないなら、ファビウスのように退くこともリーダーシップの勇気に入るのかもしれない。また、そもそも実現できそうにもない主張を約束しない勇気もリーダーシップには必要である。
⑨善意だけでは政治はできない。現代の国際政治でも相手の善意だけを信じて主観的な共同体を構想したり、長年の信頼関係のある同盟や協力の見直しをするには慎重でなくてはならない。
⑩こうしてみると、歴史の教訓は、個人的には善意にあふれた政治家が国際的な罠(リスク)に陥らない保証がどこにもないこと(不確実性とリスク)を示している。
 

民主党代表選挙で問われたものは何か

 再び問う。民主党代表選挙で問われたものは何であったのだろうか? 政治とカネなのか、首相の帝王学か、それとも経世済民・安全保障・リーダーシップを含め歴史観、現実を見据えた世界観を踏まえた政治的能力(知識+経験)なのか?
 今回の民主党代表選挙を通じて腑に落ちなかったのは、①「政治とカネの問題よ、サヨナラ」というムードと、②「総理大臣がころころ変わるのは恥ずかしいから、菅総理大臣が続投すべきだという〝世論〟めいたもの」がかなり影響した観があったことだ。
「捏造された『政治とカネ』小沢起訴は無効である」(「週刊朝日」十月二十二日号)は、民主党代表選挙中のトーンを一変させるほどの特集であり、論争を呼びそうである。リスク・マネジメントの目的ないし効果の一つは、バランスの取れた判断力を養うことにある。リスク・マネジメントの目的は、政治的主張、経営的主張をすることにあるのではなく、そうした意思決定のために情報収集して選択肢を客観的に示すところにある。
 政治は「一瞬先は闇」といわれるように変化が激しい。リスクと不確実性が多く、大きい。変化のもたらすリスクと、変化に適応できないリスクに対し、感知力、評価力および解決力を国民も政治家も高め、磨かねばならない。リスク・マネジメントと危機管理は、国民教育の基本・土台の一つであり、家庭教育や子女教育の基本──すなわち、人生をいかに生きるかに関する姿勢と方法を導くものだ。
 このような考えに立ち、リスク・マネジメントを磨きたい方は、経済産業省所管・社団法人日本工業技術振興協会(JTTAS)や、リスク・マネジメント研究会(JRMS)など、民間のリスク・マネジメントの研究会や通信講座、講演会、シンポジウムなどに参加することが望ましい。
 

尖閣沖漁船衝突事件が及ぼしたリスクと危機

 九月七日に尖閣諸島付近で、海上保安庁の巡視船「みずき」と中国漁船との衝突が起きた。この事件を契機に高まった日中間の緊張は、九月二十四日の船長の釈放後もすぐに沈静せず、平常化とはいかなかった。日本では政治的嵐が巻き起こってしまった。政治・軍事・外交のリスク・マネジメントと危機管理はさておいて、日本人一般と日本人サラリーマンに関係のありそうなリスクをマスコミ報道から拾い出してみよう。国家のリスク・マネジメントと危機管理と、国民や家庭のそれとは、密接不可分であることが連想される。チリ鉱山落盤事故も同様な示唆を含んでいる。
●中国が日本の学生らの万博招待を延期 (九月二十一日)
●中国はトヨタに罰金適用を計画 (九月二十二日)
●中国人船長の釈放で国内に猛反発 (九月二十七日)
●レアアース輸出禁止(九月二十七日)
 尖閣諸島沖で勃発した中国漁船の衝突事件で急速に悪化した日中関係に起因する、日本企業にとっての中国リスクとそのマネジメントは何だろうか。
①盗聴リスク、②民間交流、イベントの中止または延期リスク、③レアアースの日本向け輸出の事実上の停止、④中堅ゼネコン、フジタの社員が中国当局により拘束された(河北省の軍事関連施設をビデオ撮影したという容疑)、⑤九月二十日、浙江省杭州市で、トヨタ自動車系の金融会社が販売店に対して違法なリベート(販売奨励金)を渡していたとして、罰金を支払うよう通達があった(トヨタだけが狙い撃ちされたものかどうか)、⑥巨額プロジェクトの入札から締め出しを食らうリスク、⑨多くの日本企業にとって最大のリスクは、今回の決定が与える中国ビジネスへの長期的なマイナス・リスク、⑩侮られリスク、⑪従業員のストライキの再発リスク(今年五月、広東省にあるホンダ子会社に発したストライキの波はあっという間に全土に拡大した)、⑫「日本企業を狙え」というリスクなど、数多い。
 日常的に発生するチャイナ・リスクや様々なトラブルに対するリスク・マネジメントの方策としては、人脈ネットワークが有効である。取引先や従業員以外に、公安、税関、地元政府などと良好な関係を作っておくことである。
 そして、ノーベル化学賞を取られた鈴木章教授が座右の銘にしていると述べられた「セレンディピティ」(偶然の発見能力)の考えを応用し、リスク・マネジメントをチャンス・マネジメントにしたいものである。
 (この項、次号に続く)

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